インキュベ-ト

ある会社の課長会でのできごと。

「彼は話をしてくれないなあ。オンライン会議に参加はするが黙ったままだ・・・」

課長が悩んでいる。彼というのは、その課にいる課長の部下だ。それを聞いた別の課の課長が返事をする。

「それって彼としてはインキュベートかも・・・もう少し様子を見てみたら?」

「そうかな・・・そうだといいんだけど」

読者はインキュベートが何かご存知だろうか?筆者はその時、知らなかった。

 

【インキュベ-ト】

1ヶ月後、悩んでいた課長が言っている。

「君が正しかったよ。確かにインキュベート状態だったよ。黙っていた彼が、しばらくして想像を遙かに超える提案をしてきたよ。あの時に『なぜ話さないんだ』なんてオンラインで敵対視していたら、何も得られなかったかもしれないよ」

インキュベートは孵化に向けて卵を温めることを言う。この会社は医療関連なので細胞を孵化させる技術に関わっている。細胞を孵化、すなわちインキュベートするのだ。だからインキュベートという言葉を使えるわけだ。

ビジネスの世界ではインキュベートは、次への行動の成功に向けて事案を温め、良い案を孵化するための行動と言えるだろう。成功に向けての潜伏期間のようなものだ。

30年ほど前になるが、シカゴ商品取引所で「取引価格の決定方法」という講義を受けた。先生が言う。「売り手は自分に都合のいい価格を買い手に“吹きつけ”ます。ここで、その策に翻弄されてはいけません。策に乗らずにインキュベートして下さい」

商品の価格を相手の言われるままで決めていては損を生じてしまう。相手の豪雨のように降り注ぐ言葉を、しっかりと受け止めて、自分なりに考えて、時間を十分に使って咀嚼し消化してから答えを出す。

すぐに返事をするのではなく、時間を使って、自分にとっての最適な答えを返す。これがコミュンケーションのインキュベートだ。

 

【耐える必要性】

冒頭の課長は気が気ではない。返事をしない相手がインキュベートとして案を練っているから黙っているのかも知れないが、もしかしたら、単に聞いていなかったとか興味がなかったからかも知れないのだ。そうであれば話し手(ここでは課長)の存在意義はなく、せっかくのコミュニケーションが時間の無駄遣いで終わってしまう。

相手が、自分(課長)が要求していることを理解している、ということに対する返答を(課長が)欲しくなるのは自然である。広義での承認欲求ということである。この欲求は、別の観点では「相手からすぐに承認を得ることで、自分の業務を終えて満足する」と言うことでもある。

シカゴ商品取引所の先生は別のことも言っていた。「売り手に必要なのは、買い手のインキュベートに耐える力です。買い手に即答を求めて、自らの欲求を満足させることに焦点を当てるのではなく、相手の行動や時間に耐えることです。相手の心は読めませんから、どんな返事が返ってくるかはわかりません。『やっぱり取引やめた』かもしれません。それを考え始めたら、そもそも耐えることができなくなり、しいては商品取引はできなくなってしまいますよね。耐えることと同居なのです」

「耐えることと同居」が売り手で、買い手の方はインキュベートで卵を温めている可能性がある。どちらにも必要なのはコミュニケーションの良き返答に向けての、時間への接し方なのだ。