かたまりの単位認識 

昼休みでランチは終えたが、会社に戻るにはまだ少し時間が余っている。そういう時はコーヒーだ。上司とともに純喫茶風のコーヒー屋さんに入る。

部長が言う。「コーヒーは私がおごるよ」。話がはずむ。そろそろ昼休みも終わり、会社にもどらなければならない。その時に部長が口を挟む。

「コーヒー一杯は500円だよ。もちろんおごるけど、君たちに教えてもらいたいことがあるんだよ。何口でコーヒーを飲んだかな」

 

 

【適度なかたまり】

純喫茶で飲むホットコーヒーは陶器でできているカップ&ソーサーが一般的だろう。このカップには大まかに言って120ミリリットルのコーヒーが注がれる。何口で飲むかには個人差はあるが、筆者のこれまでの経験では7口から10口が一般的と考えられる。

冒頭の部長の質問に対する答えとしてはここでは「10口」と考えよう。部長の質問の意図は一口でどれぐらいを“すするのか”を探り出すことではない。許容できる単位認識という、バイアスとも言って良い人間が持つ認知について部長は考えているのだ。

一般的に、私たちはコーヒー一杯が500円であれば、それは500円であり、分解することはない。部長の質問のように何口で飲んだかと聞かれ、10口であれば1口あたりが50円になる。

部長は続ける。「10口で飲むってことは1口あたり12ミリリットルだよ。1口が50円もするんだよ。2口あれば100円だからカップ麺が買えたり、ペットボトルのお茶が買えるよ。もったいないねえ」

仲間は嫌気がさしてくる。ただコーヒーを飲んでいるだけであり、その後は、会社で仕事をしなければいけないのだ。心がどんよりしてくる。そこに部長の最後の一撃だ。「できるだけ、ちょっとずつ飲もうよ。1口6ミリリットルにすれば20口飲めるよ。1口あたりが25円になるんだよ」

物事には適度なかたまりという許容できる単位認識があるのだ。ここではコーヒー1杯が500円という単位となっており、それ以下に分解することについて、私たちは自然と拒絶感を持つ。

1口いくらという細かな単位に話が進んでくると「その前にコーヒーを飲んでいる時間にかかる代金を考えなければ」とか「楽しく話ができるということに金銭的価値がある」とかいった状況になる。適度なかたまりである単位認識を詳細に分割することで、認知的にはマイナス効果が現れるのだ。

 

 

【反応の余裕】

会社勤務の方には昼のコーヒーは珍しくはないだろう。部長のような有用かどうかはわからないコーヒーの単位認識はないだろうが、業務においては存在する。近時、データの分析手法が多様化し、ビッグデータとして分量も増えていくなかでは時間単位の営業成果、財務分析も珍しくはない。ある会社では営業利益を10分ごとに更新しているところもあるという。

時間単位という詳細すぎる可能性を含むデータを受け取っても、私たちの持つ適度なかたまりの単位認識には合わないことがある。営業成績がふるわないなら、まず、部署内で話し合い、解決策を認識しなければならない。この数日はかかる時間が適度なかたまりとしての単位なのだ。

詳細さにこだわることで、会社の業務としての適切な単位認識がおろそかになっていないだろうか。時間の猶予を与えない状況になっていないだろうか。人間だから、ものごとに反応し、それに対応するための余裕が必要だ。細かすぎる単位認識には意味ながないことがある。