カササギ

中国の最古と言われる詩集に詩経というものがある。調べてみると紀元前9世紀から紀元前7世紀あたりだと言う。

ほぼ3千年前に詩集が出ていたと言うのだから驚きだ。人間の知性のすごさを感じる。さて、その詩集には「他山の石以て玉を攻む(おさむ)べし」と記されている。さてどういう意味か気になるところだが少し遠回りしてみたい。

 

【カササギ】

カササギという鳥のことをご存じだろうか。カラス科の鳥なのだが(カラスには申し訳ないが!)カラスとは異なり、極めて美しい。美しい黒の中の一部が、これまた美しい青となっている。

人間と同様に、見た目にも不公平感がある鳥なのだが、その上、知能が高いとくる。カササギは鏡に映る自分を自分だと認識することができるのだ。イヌやネコが鏡に映る自分を自分とは認識できずに鏡の自分に吠えたり攻撃したりということがあるが、カササギはそうではない。

鏡に映る自分を見て異常があれば解決する。例えば、自分では見えない頭の後ろあたりにゴミが付着している感覚があると、それを確かめるために鏡を利用する。鏡がなければクルマ等のガラスに映す。そこに映る像を利用して器用に趾(あしゆび)を使ってゴミを取るのだ。鏡に映るカササギが、それは自分であると認識できるのだ。知能が高いことを示している。

私たち、人間もカササギと同様の知能は持っている。鏡に映る自分にゴミがついていればそれを取ろうとする。ゴミだけではない。髭が生えていれば剃る。眉毛が不用意に成長していれば鏡を見ながらハサミで切り落とす。鏡に映るハサミを自分の思い通りに眉毛に近づけることには四苦八苦するのだが、なんとかする。

カササギ的にすぐれている人間だが、カササギよりももう一段、すぐれた能力がある。見えない自分自身を自分の心の中の鏡に映し出す能力だ。実際の鏡がなくとも心の中に鏡があるのだ。心の中のもう一人の自分が、自分を冷静に見据えて、ゴミとも言えるような問題があればそれを取り除く。心を改善する能力が備わっているのだ。

 

【他山の石は自分の石】

冒頭に話を戻ろう。「他山の石以て玉を攻むべし」の「玉を攻む」は他山の石で玉を攻撃するがごとに感じるが、ここでの攻(おさむ)は磨くということだ。筆者なりの理解で話を進めれば「他人が持っている価値のなさそうな石を使って、自分が大事に思っている石を玉のように磨き上げる」ということだ。

端的には、他者を使って自分を磨きあげるいうことになりそうだが少々異なる。本来的には他人の行動や意見のなかでおかしな部分があれば、それを、自分にも起きているはずだとと考える。そして、自分の行動や意見が本当に正しいのかどうかを反省する。これにより、自分の心が磨かれる。ということになる。

会社では常にコミュニケーションが行なわれる。気が合わない人もいるだろう。そういう人との会話は疲れるし、げんなりしてしまう。そして避けてしまうのだ。こうなると他山の石とのコミュニケーションが絶たれてしまい自分が磨かれなくなってしまうのだ。

カササギはもしかしたらゴミを認識したくないかもしれない。ゴミがついていようがいまいが鳥の生き方には関係ないかもしれない。でも一生懸命にゴミを取って美しさを保つのだ。

私たちのコミュニケーションも美しさを保つためには他人とのやり取りは必須なのだ。