ピンチョス

ピンチョスって聞いたことあるだろうか。スペイン生まれの料理だ。

小さなパン(3から5センチ角)を土台に、様々な食材を乗せて崩れないように大きめの楊枝(小さめの串)で支えている。パンはなくとも材料だけを楊枝に重ね合わせてもかまわない。

ピンチョスとはバスク語で楊枝を意味する。楊枝でつかめるぐらいの分量を、一口で“がぶり”といく。その手軽さがいい。

 

 

 

【魔法のおいしさ】

スペイン人の先生が教えてくれた。

「ピンチョスは魔法ですよ。1人で食べると普通においしいのですが、魔法をかけるとおいしさが激変しますよ。こんなにおいしいスペイン・ピンチョスをぜひ食べてみたください」

ここまで言われれば食べないわけにはいかない。仲間と共に先生のご自宅に伺った。

皆で食べた。先生が言う「どうですか?」皆がおいしいと言う。先生が返す。「もっとおいしくなりますよ」。先生はそういって笑っている。・・・でも笑っているだけで、先生は何もしない。調理場に行ってなんらかの行動をするわけでもなければ、新たな調味料をピンチョスに加えるわけでもない。

「まだ味が変わらないですか。どんな風に“かわらない”ですか。教えてください」。質問を皮切りに皆が話し始める。最初はピンチョスを味覚でもって評価しているが、どんどん話は変わりピンチョスの成り立ちや歴史に始まり、スペインの気候や環境に移り、日本との差になり、移住の話になり、移住するなら知らない国がおもしろいとなり、とうとう火星への移住と話が進む。

しばらく話した後で先生が言う。「あれほどあったお皿のピンチョスがなくなりましたね。おいしくなっていたでしょ?」

そう言われればそうだ。筆者は確かに最初よりもおいしく感じていた。仲間達も「おいしさが増したみたい」と言っている。

先生が笑いながら言う。「私がピンチョスの“味変”を調味料で行ったなんて考えていないでしょうね。私に料理技術はないですよ。そもそも物理学の教員ですからね。栄養学も調理学も全く知らないですよ」

皆、ぽかんとしている。「ほら、日本人ってこうですよ。皆、黙っている。もっとおしゃべりしましょうよ。おしゃべりしながら、楽しみながら食べましょう。すると、普通のおいしさが、魔法にかかったようにおいしくなるのですよ」

 

【なぜコミュニケーションでおいしさが増すのか】

対人的な親近性認知効果という考え方がある。対人同士でただ会話をしていても親近性を持てるかどうかはわからない。親近性をより発展させるために会話の中に少し別の素材を加える。たとえば、会話をしつつ表情を変えたり、相手に触れたり、ふれなくとも大阪のおばちゃんがごとくに『ちょっと、いややわあ』と相手に空振りのタッチをしたりすることだ。この表情の変化、接触(疑似接触)が親近性を高めて会話がいっそうに進み、会話が“おいしく”なる。

同様の効果が食べ物、すなわちピンチョスだ。ピンチョスを食べるだけでは普通だ。会話もすすまない。しかし、ピンチョスを素材に会話を進める糸口を作ることで、ピンチョスが一層おいしく感じられ、相乗効果で会話が“おいしく”なるのだ。

楽しい会話は普通では生まれない。おいしい素材もそう簡単には味変しない。相互作用で楽しく豊かなコミュニケーションが成り立つのだ。ぜひ、ピンチョスで社内会議を開いていただきたい。