オープンスペース

あるメディア系の企業の取締役の話である。

「会社では従業員はオープンスペースで仕事をしていますよ。人と人が“いっしょに”なって“隣同士”の感覚で仕事ができています。なによりも、同じスペースに“いる人の顔が見える”ので、新型コロナの新常態から、以前の常態に戻ったことに等しいことが仕事の効率を高めてくれています。周囲の雑音が聞こえるのはいいですね」

さて、この会社は新型コロナ感染症とは関係のないのだろうか。感染の問題がなくなった地方で仕事をしているのだろうか。

 

 

【外部コミュニケーションの必要性】

筆者は無音の世界の経験をしたことがある。知人の医師に体験させてもらったのだが、1平方メートルぐらいの小部屋に入るのだ。外の景色はうっすらと見えるがドアを閉じると、外部の音が聞こえない。聞こえるのは自分の呼吸だけだ。無音と言うのは外部の音が一切遮断された状態をここでは指している。

10分ほどすると、自分の服をさわったり、壁を指でついてみたりする。なんらかの外部の音を聞きたいのだが、それはかなわない。外のぼんやりして景色をなんとか、正確に見ようとする。しかし、それもかなわない。

人間には見る、聞く、話すの3つのコミュニケーション機能が不可欠だ。日光の「見ざる、聞かざる、言わざる」と同様に、見る、聞く、話すは、いずれにしろ人間にとっては必定だ。もっとも日光の三猿はそれぞれを“しない”と言うことではあるが、人間は3つの機能を必要としていると解釈しよう。

見る、聞く、話すは必須なのだが、この無音の実験では、見る、聞くと話すが遮断された。それによって、ストレス状態に陥った。内部だけでは不十分で、外部が必要ということだ。

 

 

【雑音の必要性】

実験の2つめは、外部の参加者が正確に見えるに加えて、聞こえる、話すが追加された。相手の声は聞こえるのだ。

外部の参加者の顔を見る、声が聞こえる、そして自分は話す。相手に自分の声が聞こえるかどうかは定かではないが話す。それでストレスが大幅に緩和されることがわかっている。

外部の参加者と直接的につながってはいない。参加者の誰かが見える。見えるだけで関係はない。誰かの声が聞こえる。聞こえるだけだ。それに対して声に出して返事をするが、返事をしたところで自分の声は適度に遮断され、相手にはまともに聞こえない。

見る、聞く、話すの、すべてにおいて、特定の相手はいない。雑音状態のコミュニケーションなのだ。

自分が話すことが相手に聞こえようが、聞こえまいが、自分が話すだけで、もっとストレスは減じられる。

特定しない相手を見て、特定しない相手の声を聞いて、特定しない相手に話す。相手が見ているのか、相手が聞いているのか、相手の話が伝わっているのかの必須性は薄いのである。冒頭にある“いっしょ”“隣同士”“人の顔が見える”が必要なのだ。

オンラインの時代、対面では存在する相手との雑音のつながりはない。一人きりだ。今、必要なのはオンラインにおける雑音なのだ。冒頭の取締役の会社は、従業員全員がオンラインでの業務なのだが、全員が、それぞれの自宅から、ネットでつながり、全員が雑音を聞きながら、あたかも対面で業務にいそしむ状態なのだ。

こういうオープンスペースの雑音の新状態、面白いですよね。