ハイコンテクスト

京都の東山区での会話だ。登場人物はA宅の中学生A君と、お隣のB宅のB奥様だ。

A君が玄関先の道路でバスケットのドリブルの練習をしている。音がする。するとお隣の生け花教室のB奥様が「ドリブルの音が聞こえるよ。バスケットをがんばってるねえ。将来はプロになるのかな」と言う。

A君は家に戻ると母親に「Bさんに褒められた」と嬉しそうに言う。それを聞いたA君の母親はすぐにお菓子を持ってB奥様宅に行き「すみませんでした。うちの息子がやかましい(うるさい)音立てて」。

 

【いけず?】

ドリブルの音がうるさいのであればB奥様はA君に「うるさいから、別の場所で練習して」と言えばいいだけの話だ。B奥様の言いたいことが、A君に即座にストレートに伝わるのである。

しかし、B奥様はストレートに言わずに、A君の母親に伝わるようなコミュニケーションを行ったのだ。いわゆる京風の「いけず」な感じではないだろうか。いけずとは、いじわるを意味する。間接的に悪口を言っているように思える。

この話は京都の大学の友人から聞いたものだ。彼は大学の心理学の教授で“いけず”について研究している。

さて、この状況でB奥様は意地悪をしたのだろうか?A君の母親は慌てて謝罪にいったのだろうか?

この母親は、家に“常時備蓄”されているご饅頭(饅頭の備蓄も面白い)を持ってB奥様宅に行っている。母親が謝罪に行ったので、A君は申し訳なさでドキドキしている。それから5分ほど経ったころだ。B奥様と母親が生け花教室の部屋で大笑いの会話をしているのが聞こえる。B奥様はA君を叱るために母親と会っているはずで、母親は謝罪しているはずなのだが・・・。

心理学の先生はこれが京都の“いけず”の実態の一つだと言う。音がうるさいことに対して、指導をするのだが、直接的な指導(B奥様→A君)ではなく、間接的な指導(B奥様→A君の母親→A君)となっている。

間接としてA君の母親が入るために、B奥様とA君の直接的な対峙は起きない。何らかの結果を直接的に受け止めることによる危機が起きないようになっているのだ。対峙が起きるとどのような結末であれ双方に遺恨が残る。この遺恨と言う時間の無駄を排除するために間接手段を利用して関係性を維持する。これがいけずの本質だと先生は言う。

 

【ハイコンテクスト】

コミュニケーションはハイコンテクストとローコンテクストのという領域で起きている。コミュニケーションの際に、大前提として双方の考え方(文化等)が共有されているのがハイコンテクストで、そうでないのがローコンテクストだ。ベースとなる考え方が双方で一致していれば、なにか諍い(いさかい)が起きることもなく、双方が長い関係性を維持することができる。これがハイコンテクストだ、

ハイコンテクストな状況を作り出せれば、物事の理解の包摂が簡単で、その関係性を強固にできる。ただし、作り上げるのに時間がかかる。時間がかかる中では、できるだけ対峙という面倒なことは起こしたくない。なぜなら対峙してしまえば修復に長い時間がかるからだ。対峙を起こさない手段が“いけづ”なのだ。

今、ジョブ型の時代となりローコンテクストでのコミュニケーションが当たり前となりつつある。一方、企業勤務の時間は長い。ハイコンテクストで対峙を避けて、関係性を維持させるテクニックも必要だ。